古代エジプトの芸術品には葦船と船員のモチーフが多く使われています。1968年、ヘイエルダールはエジプト、ルクソールの王家の谷の墓内に描かれている絵を目にし、1970年代には古代メソポタミア文明、インダス文明とエジプト文明は海を使って交流していたのではないかとの考えを抱くようになりました。
メソポタミア文明のシュメール人が帆の付いている船を使っていたことは科学者たちにとっても明らかなものとなっていましたが、それは主に川と海岸線沿いにのみ用いられていたと考えられていました。ヘイエルダールはそれに納得ができず、古代の簡単な船でも大海をまたぐことは出来たはずだと信じ、海は文明交流の妨げではなく、実は交流の大通りではなかったのかと問いかけるようになりました。
1976年、ヘイエルダールはイラク(古代メソポタミア)を訪れ、シュメール人の葦船を調査しました。そこでヘイエルダールは葦の浮き具合は葦が8月に収穫された時に頂点を達することを学びました。シュメール人の勧めに従って、
様々な国から、11人の乗組員が集められました。そのうち3人はラー号の遠征にも参加したノルマン・ベーカー氏(アメリカ)、カルロ・マウリ氏(イタリア)、ユリ・センケヴィッチ氏(旧ソビエト連邦)、そして新たに加わったラシャード・ナジル・サリム氏(エジプト)、アスビョン・ダンフス氏(デンマーク)、ハンズ・ペッテル・ブーン氏(ノルウェー)、カラスコ・ゲルマン氏(メキシコ)、ノリス・ブロック氏(アメリカ)、デトレフ・ソイゼク氏(ドイツ)と日本からこの航海に加わった鈴木公氏でした。
シャットゥルアラブ川を下流しアラビア湾を経てアラビア海へと ティグリス号は進みました。今回の遠征はコンティキ号やラー号とはまた異なり、海流や風に沿らずに目的地の各地の港にを目指して航海帆走しました。操縦性が低い船ではあったもののパキスタンのインダス溪谷、そして続いて東アフリカのジブチに到着。
今回の遠征は6,800キロ、143日間でした。この遠征を通して葦船による海の帆走が可能だという事を証明しました。ヘイエルダールの他、専門家達もやはり古代文明はアラビア半島付近の海を通して交流していた可能性が高いと考えるようになりました。
当該地域における荒れ狂う地域紛争への抗議の表しとして、ヘイエルダールはティグリス号を海で燃やすことにしました。そして1978年4月3日、ジブチの海でティグリス号は炎に飲まれ、同時に以下の文章を先進国の住民に向けて国連に書簡として送ったのでした。 「私たち自身が選んだ自国のリーダーたちに対し、先祖代々如何なる剣や斧をも拒絶してきた民たちへ現代兵器の供給を直ちに止めるように要求しない限り、これらの責任は私たち1人ひとりにあるのだ。」