トール・ヘイエルダールは歴史上もっとも有名な探検家の一人です。1947 年、彼はバルサ材の筏船コンティキ号で太平洋を横断しました。この彼の最初の探検航海は映像化されて、のちの1951年にアカデミー賞長編ドキュメンタリー映画賞を受賞しました。 その後、彼はアシ船ラー号、ラーII号、およびティグリス号で同様の偉業を成し遂げ、これらの航海によって, 彼は環境と世界平和への深いこだわりを示しました。彼はまた、ガラパゴス諸島、イースター島、およびトゥクメにおける重要な考古学的発掘調査の責任を果たしました。コンティキ号博物館はヘイエルダールの世界的探検旅行の際の品々、最初の筏船コンティキ号、およびパピルス船ラーII号を展示しています。
トール・ヘイエルダール

生誕 | 1914年10月6日 ノルウェー王国、ラルヴィック市 |
死没 | 2002年4月18日 イタリア共和国、コラ・ミケーリ村 |
職業 | 民族学者、実験考古学者、執筆家 |
配偶者 | リーブ・コケロン・トルプ(19361947年)– |
子女 | トール・ジュニア、ビョルン(リーブとの息子) |
会員歴 | ノルウェー学士院(Det Norske Videnskaps-Akademi、1958年) |
勲章 | オスロ大学名誉博士号(1961年)モスクワ国立大学名誉博士号(1989年)セント・マーチンズ大学名誉博士号(1991年)パシフィックルター大学名誉博士号(1998年)メイン州立大学名誉博士号(1998年)ラトビア科学アカデミー名誉博士号(1998年)ウェスタン大学名誉博士号(2011年)アンダース・レツジス・メダル(スウェーデン考古地理学会、1950年)ヴェガメダル(スウェーデン考古地理学会、1962年)プリ・ボナパルト-ワイスメダル |

トール・ヘイエルダールは1914年10月6日にノルウェーのラルヴィック市で生まれ、同地で育ちました。父、トール(同名)は醸造所のオーナーでした。母、アリソンはラルヴィック地域博物館協会の会長であり、動物や自然科学への強い情熱を息子のトールに伝えました。使用されなくなった醸造所の建物を使い、動物学博物館を作ったこともあります。幼少期のトールは絵を描くことが得意で、若干8歳で太平洋諸島の様子などを想像豊かに描き上げていました。その頃にはすでに将来探検家になると決めていたと言われております。
青年期のトール・ヘイエルダールはクロスカントリースキー、森や山へのハイキングに興味を持ち、幾度となくノルウェー国内の山々へ赴き、自然を用いて生き延び、共存していく知恵を学びました。ロンダネ国立公園やヨーツンハイム山地の探検のために、友人のエリック・ハッセルベルグと共に長期間の野外生活、冬には雪洞でのキャンピングなどの経験もしました。探検旅行をするときは必ず愛犬のカザンを伴っていたと言われています。
彼の探検旅行の報告記事は雑誌「Tidens Tegn」(ティーデンズ・タイン)、また年鑑などにおいて出版されました。記事にはトールが描いた図や撮影した写真が使われています。後には「イグルーの作り方」など教育目的の記事も書くようになり教師としての経験も積んでいくと同時に、各地のアウトドア愛好家にもその名が知られるようになっていきました。

世界市民として
世界市民として
人間は皆同じだ。皆同様に現実的な問題を抱えている。これが
ヘイエルダールの人の命に対する信条でした。そして、民族、政治、宗教の分け隔てなく、人類は皆共働、共存していくことが出来ると信じていました。
1950年代後期から1990年代初頭まで、ヘイエルダールは
世界的な平和運動に力を注ぎました。直接各国の高等当局や
アンドレイ・グロムイコ、ジョン・F・ケネディーなどの影響力のある政治家に語りかけ、説得しました。
ヘイエルダールの価値観に基づいた発言は世界連邦運動に取り上げられ、瞬く間に彼は積極的に運動へ参加する一員となりました。世界連邦運動とは世界平和を目的に国境を超えた協力と国際法律、国際刑事裁判などを推進する運動です。のちにヘイエルダールは名誉副会長に任命されました。
そのほかにもヘイエルダールはユナイテッド・ワールド・カレッジの働きにも加わりました。世界中で非営利の高等学校を運営している団体で、世界中から集められた青年たちが共に暮らし、勉強しています。この団体は冷戦中に設立され、出身地や文化が全く違う青年達が互いに学び合い、協力し合う環境を作りあげることを目標としています。
国際色豊かな乗組員を乗せて敢行されたラー号、ラーII号 そしてティグリス号の遠征を通してヘイエルダールは文化の違いを超えて協力し合うことが可能だということを示したかったのです。その信条はまさに古代から人類は海を使って活発に交流していたというヘイエルダールの仮説からなるものです。
1978年のティグリス号遠征ではイラクからジブチ、そして紅海へと旅を続ける予定でしたが、地域の荒れ狂う紛争に妨げられ続行を断念しました。抗議としてティグリス号は海で燃やされ、同時に国際連合の当時の事務総長クルト・ヴァルトハイムに戦争抗議と先進国の発展途上国への武器貿易の問題を取り上げた文書を書き送りました。これには乗組員全員が署名に名を連ねました。
「我々は葦束の船で海を渡ってきたが、地球がこの船のように沈没船と化すリスクは大きく、我々現代人が目と心を開き互いに積極的に協力しあっていかなければ、私たちの文明と惑星はこの葦船と同じ結末を迎えることとなるであろう。」

環境保護活動家として
ラー号の遠征中、ヘイエルダールは大西洋における海洋汚染を発見しました。海面に油の塊が浮いていることに乗組員らは気づき、発見内容は国連に報告されました。ラーII号の遠征では国連の事務総長からの申し入れで、連日海水の汚染調査を行いました。結果、
57日間の遠征のうち、43日間は海水に油の塊が観測されました。
遠征隊員は嘆願書を書き上げ、国連の事務総長ウ・タントに提出しました。油による国際的な海洋汚染問題は特にアメリカのメディアで注目され、ヘイエルダールは聴聞のため米国議会に招待されました。また、1972年のストックホルムにおける第1回国際連合人間環境会議の準備会議にノルウェー外務省代表の1人として参加しました。ストックホルムでの会議では海への廃油の投棄禁止令等が採択されました。沈みかけた葦船ラー号隊員の呼びかけは
直接的な実績を残したわけでです。
その後もヘイエルダールは環境保護活動を続け、海洋汚染問題を取り上げては世界一面に広がる海原を「世界洋」と記載し、世界は海を通して繋がっていることを強調しました。

トール・ヘイエルダールによる漫画(1946年)
芸術家として
ヘイエルダールの芸術家としての一面はあまり知られていません。ヘイエルダールの著書、映画や絵画の作品は彼の最たる情熱、古代人類学や考古学に関する内容のものがほとんどです。
ヘイエルダールは少年時代から絵をたくさん描いていました。新聞や雑誌に記載された青年時代のヘイエルダールの冒険記などには彼が描いたユーモアあふれる絵や図が付属されています。また、1937-1938年に結婚したばかりの妻を連れて訪れた太平洋の冒険中は、その経験を元に幾つもの風刺漫画調の作品を描き上げました。その後、コン・ティキ遠征前の作品は社会批判のテーマが多く、他民族への偏見、発展を盲目に支持する社会、世界資源の不公平な分配政治等を取り上げました。作品の多くにはヘイエルダールの解説や説明が書かれていました。
木造彫刻はヘイエルダールにとって、その一生を通じての大きな関心の1つでした。青年時代の頃から彫刻の才能を発揮しており、当時作った箱の蓋に刻まれた美しい南の島のタブローは今でも保存されています。
ペルーのトゥクメにあったヘイエルダールの家、「カサ・コン・ティキ」の入り口に付けられた頑丈な戸にはコン・ティキ神の顔が二つ彫られています。これは晩年のヘイエルダールの作品です。

語り継ぐ者として
ヘイエルダールは人生の多くの時間を書斎の机の前で過ごしたと言われています。それは本を執筆したり、新発見を求めて世界中の図書館に足を運んだりしていたためです。また、一生を通じて何冊もの本や50本以上の科学記事を出版しています。科学界における「当たり前」に挑む理論を説いたり、予想外の質問を問いかけることを通して科学界の総意を覆すことに長けていました。必ずしも全てが正しかったわけではありませんが、問いかけなしには科学は存在しません。ヘイエルダールが問いかけた分野では今でも調査が続けられています。
ヘイエルダールのストーリーテラーとしての一面は多くの人々の記憶に残っています。人々を巻き込み、会話を広げ、一種の社会現象を巻き起こしていくのは彼の天賦の才であったとも言えるでしょう。彼は自らの経験を人々に伝えることに燃え、著書や関連映画、写真や講演を通して「伝えるプロ」となっていきました。
ヘイエルダールは14冊の一般向けの科学書籍を執筆しました。これらの本は多くの人気を得て、様々な言語に翻訳され出版されました。特に1948年出版の「コンティキ号漂流記」は70ヶ国語以上に翻訳され売上数は数千万冊に及んでおり、ノルウェー人著作の書籍における最大の売上を記録しています。
数多くの遠征は映画としても世間に知られていきました。1950年に上映されたドキュメンタリー映画「Kon-Tiki」は翌年のアカデミー賞を受賞しています。映画は注目を浴び、ヘイエルダールの科学的なアイディアを一般の人々にも伝える道具となりました。